幼少の頃、松島家では、父方の親戚とは、ほぼお付き合いがなく、母方である母の二人の弟、2家としか交わりがありませんでした。
今でも覚えておりますが、小5の頃、初代ファミリーコンピューター、所謂ファミコンを私は買ってもらえなかったので母の弟(実家の長男)である、2階建ての叔父宅に日曜日になると、同学年のいとこと楽しませてもらっておりました。
夏には、台所で西瓜を食べさせてもらったり、北側の長屋に当時住んでいた母の弟(次男)である叔父宅へ、もう一人の数少ない(僅かこの二人だけ)いとこと遊んだり、それはもう懐かしく世間の厳しさを肌で味わい、身体に徹底的に叩き教え込まれた記憶が未だに鮮明化されております....。
昔の家(恐らく明治か大正時代築)でしたので2階にあがる階段が、まるでお寺さんのそれのように急だったことを思い出します。
高校1年の時にそこに住んでいた、ただ一人のお爺さんである祖父が亡くなり、同居していた女のいとこの泣き顔と、暗い親戚達の顔もなぜか思い出して来ました。
群馬県庁一筋の堅物でしたし、生粋の潔癖症である長男叔父は、2回も離婚している阿呆な私をあまり好いていなかった模様ですが、まぁそれでも甥っ子ということで気には掛けてくれていたとは思います、
最後に差しで呑んだのは、もう4年も前の焼き鳥屋。
最も信用のおける叔父さんには、たくさんのポスティングをしていただきましたので、その労をねぎらってのカウンターでの差し呑みでした。
幼少期のことは、わずかながらでも思い出すことができるのに、たった4年前のことが思い出せない....何について話したのか?
ただ覚えているのは、「初めの生ビール」を飲まずに芋焼酎をロックで吞み、焼き鳥を1,2本しか食さず、あぁ~叔父さんは相変わらずやな~、と。
昔から、ほとんど何もつままず、日本酒やら焼酎やらを吞んでいましたので体脂肪はやっと10%位だったかと。。
ただ酒量は、毎晩1升を鯨飲するほどの大酒飲みという訳ではなく、日本酒ならせいぜい5合くらいだったかと。
でもやはり何かしら食べながら吞まないといけませんね....。
ところで我が家にあるお祝い事があり、そのお返しを昨日、映画の帰りに娘と20年位前に建て替えた叔父さんちにお届けしようと考えておりましたが、妻の実家に急遽呼ばれ後日にしたばかりでした。
そして今日、16時41分に母から叔父さんの訃報が届きました。死因は、動脈乖離とのこと。
どのように入院してご逝去されたのかという経緯は、これから判明しますが、暴力に物を言わせて教育を施してきた我が父とは正反対で、正論と言論で私を厳しく教えてくれた叔父さん。
享年73歳(4月29日に告別式を行いました)
早すぎる死に今でも、俄かには信じられない気持ちです。
今年の5月21日には、コロナ禍明けで久しぶりに前述の祖父の33回忌で会って久しぶりに会話が出来ることを本気で楽しみにしていただけに、この死は久方ぶりにショックと驚きと寂しさと悲しさと一抹の後悔に堪えません。
真にご冥福と哀悼の意を表します。
今まで有難う御座いました。